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作者 Administrator
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2007/01/25 木曜日 21:52:13 JST |
私と私の家とは、主に仕える (ヨシュア24章15節)
一、主の業を思い起こそう。(1−13節)
主は,先祖アブラハムの召命からカナンの地に安住している現在に至るまでイスラエルの歩んで来た道を教え、彼らを諭されました。 ここで注目に値されていることは『わたしは(が) した』という主のことばが 14回も記されていることです。 私たちはこの日に至るまで,主のために様々な働きをしてきたことでしょう。 しかし、それは私たちを通してなされた主のわざであることを忘れてはなりません。 パウロの言うように『それは私ではなく,私にある神の恵み』(1コリント15章10節) なのです。
私たちは、このことを心から認めるなら 『あなたがたは、自分で労しなかった地を得、自分で建てなかった 町々に住み、自分で植えなかった畑で食べている』(13節) と言われた主のことばを素直に受け入れ,神に栄光を帰して、へりくだることができるのです。
二、民に必ず主に仕えるという契約をむすばせる。(14−28節)
過去における主のわざを民に思い起こさせたヨシュアは 『今、あなたがたは主を恐れ,誠実と真実をもって主に仕えなさい』 と民に勧めていますが(14 節)、この個所には民が主に仕えることをヨシュアが確認する三つの段階が記されています。 第一、まずヨシュア自身が『主に仕える』模範を示して、主に仕えるか偶像に仕えるか民に選ばせています (14、15節)。 すると民は『私たちもまた,主に従います』と言いました(18節)。 第二、しかし彼は,民の口先だけの服従を見抜き 『主に仕えることはできないであろう』(19節)と警告しました (19節)。 すると民は『いいえ、私たちは主に仕えます』(21節)と言ったのです。
それで彼は民自身を証人に立て、また民が 『私たちは 主に仕え,主の御声に聞き従います』 と言ったので,彼らと契約を結び、大きな石を取ってその証拠としたのです(22−23節)。
私たちは,自分でも気づかないほど自分が不信仰、不服従であることを忘れてはならず、それゆえ絶えず恵みの手段に励むことによって、信仰と服従を確かなものにしなければならないのです。
三、百十才で死に、葬られた主のしもベヨシュア (29−33 節)
この個所にはヨシュアとエレアザルの死、および、この二人にヨセフを加えた三人の埋葬について記されています。 特にヨセフの骨が埋葬されるまでに、彼の死後、四百年以上歳月が流れていることを考えると、遺言に対するイスラエル人の忠実さとともに、神の遠大なご計画を改めて教えられるのではないでしょうか。
『主のしもベ、ヌンの子ヨシュアは百十才で死』にました(29節)。 『虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す』ということわざがありますが、信仰者は死んで何を残すでしょうか。 それは『彼は死にましたが,その信仰によって、今もなお語っています』(ヘブル11章4節)とあるように,信仰のあかしです。 民がヨシュアの死後も 『長老たちの生きている間,主に仕えていた』(31節)ことは、子々孫々に至るまで戦う信仰の団体戦を教えているヨシュアの生涯にまことにふさわしい結末です。 |