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あなた方は誘惑に陥らないよう,見張って,祈っていなさい。霊はその気でも,肉体は弱いのだマタイ 26:41

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十字架
作者 kyokai   
2008/03/16 日曜日 20:59:13 JST

(キリストは) 自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われま
 した。                     (第1ペテロ 2章24節)                                                             

      His wounds you have been healed. (1 Peter 2 : 24 )

 

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一、十字架に向かう救い主(ルカ 23章26−32節)
 

イエスが十字架を負わされて刑場に向かう途中、ローマ兵は、おそらく祭りのためエルサレムに来ていてたまたまその場に居合わせたシモン (マルコ15章21節)、にイエスの代わりに十字架を背負わせました。この出会いをきっかけにシモンはイエスを信じる者となりました。
 

イエスは、泣きながら見守る女性たちに対しても『自分自身-----------のために泣きなさい』と語られました。
 イエスの十字架は他人事ではなく、見守る私たち自身がどうするかが問われているのです。

二、十字架上のイエス(ルカ23章33−49節)
 

刑場では、刑を執行した兵士たち、一諸に十字架につけられた犯罪人、そして全体の管理に当たっていた百人隊長がそれぞれイエスとの出会いを経験しました。

イエスが兵士たちについて『彼らをお赦しください』と祈られた言葉、犯罪人の一人に対して『あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます』と告げられた言葉、そして全体を見守っていた百人隊長の『この人は正しい方であった』という感想の言葉、これらの言葉は誰が聞いたのでしょうか、弟子たちはみな逃げ出してしまい、勇気を振るい起こして居合わせた人たちも『遠く離れ』(49節) た所にいました。

刑場の真ん中にいた誰かが聞いて、それを後日語ったとしか考えられません。兵士たちか、百人隊長か誰かがイエスを信じ、教会に加わった者がいるのです。

三、十字架から降ろされた救い主(ルカ 23章50−55節)
 

やがて息を引き取られたイエスのお体を引き受け、丁寧に埋葬の手続きをしたのは、アリマタヤのヨセフでした。彼は議員でしたが、イエスの逮捕には同意していませんでした(50−53節、ヨハネ19章38節)。ニコデモも協力して埋葬に当たりました。 (ヨハネ19章39−42節)
 

彼らは、それまでイエスの人柄と教えに心を打たれていたが、自分たちの高い地位を考えて、もう一つ決断に移ることができなかったのでしょう。

しかし、イエスの死を目撃し、ガリラヤ出身の無名の弟子たちと比較して、地位ある自分たちにできることは何かと考えたとき、埋葬こそ自分たちの責任であると思い至り、ついに勇気を奮い起こして行動に出たのでしょう。
 イエスは十字架で死なれた。その死と自分との関係を真剣に考えた人は、信仰に進み。救いを得ることができるのです。

最終更新日 ( 2008/03/21 金曜日 22:24:19 JST )
 
捕らえられたイエス
作者 kyokai   
2008/03/09 日曜日 14:45:54 JST

 彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。                                                                  (イザヤ 53章12節 )

 For he bore the sin of many, 
       and made intercession for the transgressors.  

                     (Isaiah 53  : 12 )

 

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一、裏切った弟子(マタイ 26章47ー49節)

 イエスが神のみこころに従う決心をしてから間もなく、一人の男に導かれた一団が暗闇の中から近づいてきました。一行を案内するのは、イエスの弟子であったイスカリオテのユダです。

その後に、祭司長や長老たちが差し向けた群衆が続きました。しかも彼らは強盗でも捕らえるかのように、手に手に剣や棒を持っていました。
 

ユダはイエスに近づき、口づけをしました。これはどの人がイエスなのかを知らせるためにあらかじめ決めておいた合図なのです。

愛情のしるしを、ユダは裏切りのために用いたのです。ユダの意図をすでに見抜いておられたイエスは、どんなに悲しい気持ちだったことでしょう。興味深いことに、47節では『12弟子のひとりであるユダ』となっていますが、48節では『イエスを裏切る者』と言い換えられています。

 

二、預言のとおりに(マタイ 26章 50ー54節、イザヤ 53章)
 

ユダの合図をきっかけに、群衆はイエスを捕らえようとしました。

この時、ペテロはイエスを案じるあまりに、剣で大祭司のしもべの耳を切り落としました。イエスを思っての行為でしたが、イエスは暴力を好まれませんでした。ペテロを止め、その人の耳を癒されたのです (ルカ 22章51節)
 

イエスは、ご自分が捕らえられて十字架につくことが、全人類が罪から救われるためにどうしても必要なことであり、神のみこころであると知っておられたのです。

イエスの十字架は、旧約聖書に預言されていたことでした。イザヤ53章10節を読みましょう。

『自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末永く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によってなしとげられる』とあります。また今日の主題聖句であるイザヤ53章12節には『彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする』と書かれてあります。

イエスが捕らえられ十字架にかけられるのは私たちの罪のためなのです。

三、逃げてしまった弟子(マタイ 26章55−56節)
 

イエスは神のみこころに従い抵抗せずに自分から進んで捕らえられました。けれど、イエスを助けなければならないはずの弟子たちはみな逃げ出してしまいました。
 35節を見ると、最後の食事を終えてゲッセマネの園に向かいながら、ペテロは『もし死ななければならないとしても、裏切りません』と豪語しています。ほかの弟子たちも口々に同じようなことを言いました。

ところが、弟子たちはゲッセマネの園での祈りの途中で居眠りをしたばかりか、その数時間後には、捕らえられようとしているイエスを見捨てて逃げ出してしまったのです。

イエスは弟子たちのこうした弱さを見て、どんなに悲しみを感じられたでしょう。
 

私たちも同じように弱い人間です。イエスは、このような者のため死んでくださったのです。私たちは、このイエスに心からの感謝をささげて従っていきましょう。

最終更新日 ( 2008/03/09 日曜日 22:03:13 JST )
 
ゲッセマネの祈り
作者 kyokai   
2008/03/02 日曜日 15:23:39 JST

わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。 (ルカ22=42)

Father, if you are willing, take this cup from me; yet not my will, but yours be done."

                      (Luke 22 : 24 )

一、神のみこころを確認する(マタイ 26章36ー38節)

神の御子イエスが十字架を前にして恐れ悲しまれたことは、私たちには信じ難い。

しかし、ルカ22章44節には、汗を血のしずくのように滴らせながら苦しみもだえて祈られたとあり、ヘブル 5章7節では (おそらくこの時のことを)『自分を死から救うことのできる方に向かって大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ』とあります。

私たちには信じ難くても、イエスが苦しみもだえながら祈られたのは確かなことです。
神の子であり常に聖霊に満たされていたイエスのこの苦しみを、私たちはどのように考えたらよいのでしょうか。
 これはイエスが『罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みにあわれた』(ヘブル4章15節) ことを教えるエピソードです。

イエスは、神のお立場で、何の恐れも不安も痛みもなく十字架に向かわれたのではありません。人として私たちと同じ死への恐怖を味わわれたのです。しかもイエスの死は個人的な死ではなく、私たちの罪を一身に背負って神の怒りをすべて引き受け、人類の代表者として経験する特別な死だったので、その苦しみも特別なものでした

二、神のみこころを選択する(マタイ 26章 39ー43節 )

主イエスは苦しみつつ祈って、神のみこころを知り、従おうとなさいました。

このことは聖霊に満たされるとが決してコンピュター自動制御のような人生を約束するものではないことを教えています。イエスですら、人生の節目ごとに祈りつつ神のみこころを判断なさったのです。

そして『わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように』なりますように (39節) と祈られたのです。『主の祈り』の中にある「みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6章10節) との祈りは、主イエスご自身の祈りであったのです。


三、神のみこころに従う(マタイ 26章44−46節)
 

イエスは苦しみの中で祈り、十字架だけが神のみこころであって、罪人を贖うための道がほかにないこと(『飲まずには済まされぬ杯』42節)をはっきり確認なさると最早ひるむことはありませんでした。何度励ましても眠ってしまう弟子たちをもう一度とがめることはなさいませんでした。

イエスはこの弱い者たちのためにこそ死んでいかれるのであり、復活の主イエスによってすべてを教えていただき、聖霊の力を賦与されるのでなければ、人が真実に力強く立つことはありえないからです。

十字架を前にしてのイエスの苦しみは、イエスの死が本当に私たちに代わって神の怒りを背負った死であることの保証です。

そして、私たちもまた、日々『みこころがなりますように』と祈りつつ信仰生活を送らななければならないことを教えられます。

最終更新日 ( 2008/03/02 日曜日 15:30:53 JST )
 
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