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作者 kyokai
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2010/06/27 日曜日 09:50:03 JST |
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『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』 (第一ヨハネ1章9節) If we cofess our sins, he is faithful just and will forgive us our sins and purify us from all unrihteousces.(1john 1 : 9 ) New International Version. 礼拝メッセージ 一、ゆるしの必要性 (第一ヨハネ1章5−2章2節) イエスを信じてクリスチャンになった者は、すべての罪をゆるされています。けれど、毎日の生活の中でいろいろな問題に出合い、時には失敗してしまうこともあります。神はイエスを信じた者たちを『罪ゆるされた者』として下さいましたが『罪のない者』となったわけではないからです。1章6節を読んで下さい。もし私たちが罪の中にとどまるなら、偽りを言っていることになるのです。また『罪はない』(1章8節)とか『罪を犯していない』(1章10節)などと言うなら、神に対しても自分に対しても嘘をつくことになります。 それでは、罪を犯したときはどうすればよいのでしょうか。1章9節を読んで下さい。神は私たちの罪をゆるして下さると書いてあります。私たちが自分の罪を告白するなら、神はすべての罪をゆるして下さるのです。 2章1節にはさらに素晴らしいことが書いてあります。私たちが罪を犯したとき、イエスが私たちを弁護して下さるというのです。 二、ゆるしの根拠(ヘブル9章23−28節)
第一ヨハネ1章7節を見ると、イエスの血が私たちを罪からきよめるとあります、㈵ヨハネ2章2節には、イエスが罪のためのなだめの供え物であると書いてあります。これはどういうことでしょうか。 血とか供え物というのは、旧約聖書が命じている罪のための儀式に関係しています。大祭司は、年に一度、動物の血を持って、神を礼拝する聖所の奥にある至聖所に入ります。血は、自分やイスラエル人の罪をきよめるためのささげものです(7節)。この儀式は毎年繰り返して行わなければなりませんでした。25、26節を読んで下さい。聖書は、イエスがご自分をささげたと言っています旧約聖書の大祭司がささげたのは、単なる動物の血でしたが、イエスは十字架にかかることでご自分を全人類の罪のためのささげものとなさったのです。また、大祭司は毎年この儀式を行わなければなりませんでしたが、イエスの十字架は、たった一度です。イエスご自身という完全なささげものをささげた以上、もう繰り返す必要はありません。私たちが罪を告白するならば、罪を赦していただけるのです。 三、クリスチャンの歩み(第一ヨハネ2章3ー6節)
では、クリスチャンはどのように生活すればよいのでしょうか、罪を犯してゆるしていただけるからと安心してめちゃくちゃなことをしていいのでしょうか。聖書は、神の命令を守ること、つまりみことばを守ることを命じています。そしてみことばに従うなら、神との親しい関係にいれていただくことができます。今日の聖書箇所では『神を知っている』とか『神のうちにいる』とか『神のうちとどまっている』ということばでこの素晴らしい関係が描写されています。 私たちは弱い人間です。誘惑に負けたり、いろいろな失敗をして罪を犯してしまいます。そのようなときは、すぐに神の前に出て告白しましょう。神は、私たちの罪を赦してくださいます。
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最終更新日 ( 2010/07/04 日曜日 12:49:41 JST )
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作者 kyokai
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2010/06/20 日曜日 09:06:03 JST |
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永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたとあなたの遣わされた, イエス・キリストを知ることです。 (ヨハネ17章3節) Now this is eternal Iife : that they may know you,theonly true God, and Jesus Christ ,whom you have sent.(Jojn 17: 3 ) New International Version. 礼拝メッセージ 一、父のみこころ 私は新約聖書の『父のみこころ』という言葉の出る箇所を見返して気づきました。それのほとんどの場合『父のみこころを行う』として出て来るのです。たとえばマタイ7章21節では、イエスに向かって、『主よ、主よ』という者が皆天国に入れるのではなくて、天のちちのみこころを行う者だけ入るのだと、主は言われます。大勢の人がイエスに反論して『自分たちは御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったではありませんか』と言っても、イエスはそういう宗教家の行為、業は斥けられました。 イエスが父のみこころと考えられたのは、イエスが自ら実行されたところで、それは信仰の有無、民族、宗教の違いを超えて、すべての人を救わずにおかぬ、神の愛の実践でありました。その究極が十字架です。 二、父のみこころを行った人々
ここではガンディとマザー・テレサのことばを紹介します。ガンディは聖書、特に福音書から多く学びました。キリスト教会とイエスの教えとの違いを、人種差別で実感していました。『神には宗教はない(神は宗教を持たない)』『キリストはキリスト教だけのものではなく、全世界、全人類のものである』といった言葉は真理そのものである神への信頼と、神に至る道である非暴力(山上の説教から学んだ)によって、インド民衆を率いて憎しみを克服し、独立に導いた彼の信仰をよく示しています。 マザー・テレサは今年生誕百年、アルバニヤに生まれインドに帰化しました。 『神に愛されるというのは、神のみこころを、ほほえみつつ行うことです』『私たちは神の道具です。できることをして黙って立ち去るのです』といった彼女の言葉には、すべての人をそのまま愛される神のみこころのままに働く姿が彷彿とします。 三、まことの神を思う(ヨハネ17章3、4節)
ヨハネ17章3節に「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなた遣わされたイエス・キリストを知ることです」とあるのは、4節の『私は、行うようにとあなたが与えて下さった業を成し遂げて』と結びつけて解すべきです。この『知る』は、旧約でのその用法と同じく、単なる知識、理解ではなく、人格的体得をさしています。 神を愛し、そのみこころを己が心とすることです。いま、この地上に肉の体をお持ちでないキリストに代わって、そのみこころを代行することです。 すべての人を救おうとされる神の意志に対して、いま、戦争、環境汚染、飢え、格差に苦しみ悩む人々に、手を差し伸べることです。心を尽くしてその人たちのことを祈ることです。祈りましょう。
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最終更新日 ( 2010/07/05 月曜日 16:07:57 JST )
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作者 kyokai
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2010/06/13 日曜日 09:22:50 JST |
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私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 (ローマ5章8節) But God demonstrates his own love for us in this; While we were still sinners. Christ died for us. (Romans 5 : 8 ) New International Version 礼拝メッセージ 一、十字架の死の理由(ローマ5章1−6節) 6節を読んで下さい。『キリストが『定められた時に』死んで下さったたと書いてあります。 イエスの十字架は神のご計画によるものです。神が旧約聖書を通して預言された、人類を罪から救うという大事業が、この十字架によって完成されたのです。神はアダムとエバが神に背いた時から人間のための救いの計画を用意しておられましたが、ひとり子であるイエスをこの世に送りイエスを十字架にかけることによってこのご計画を完成して下さったのです。 6節をもう一度見て下さい。キリストが『不敬虔な者にために死んでくださいました』とも書いてあります。『不敬虔な者』というのは、神を敬わない人のことですが、つまり私たちのことです。ローマ4章25節には『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです』と書いてあります。 二、十字架の死を生じさせる力(ローマ5章7、8節)
イエスが私たちのために死なれたということがどういう意味をもっているか、考えたことがありますか。人間はだれでも死にたくないものです。それも他人のために、自分から進んで死ぬなんてとんでもないことだと思いませんか。7節を読んで下さい。本当にそのとうりですね。けれど、イエスは『私たちのために死んでくださった』のです。8節を読みましょう。イエスがご自分の命を捨てられたのは『正しい人』でも『情け深い人』でもなく、罪人であり、不敬虔な者のため、つまりイエスに反逆していた私たちのためだったのです。 これは、神の愛の表れです。十字架というのは、私たちに対する神の愛が示されたものなのです。第一ヨハネ4章10節を読んで下さい。 三、十字架の死がもたらす結果(ローマ5章9−11節)
それでは、神がそれほどの愛を示して下さった十字架によって、私たちはどのようになったのでしょうか。まづ、10節の前半を見て下さい。十字架の結果の一つ目、十字架によって神と和解ができたことです。今まで神に背き、敵対していた人間が、十字架によって神と仲直りしたのです。 二つ目は10節の後半にあるように、いのちによって救いにあずかったことです。いのちというのは、復活のいのちと力です。私たちはこの新しいいのちを頂き、救われたのです。 三つ目、神との交わりを喜ぶ者とされたことです。罪を犯したアダムとエバは、神から隠れようとしました。何か悪いことをして親の目をさけようとした幼い時の経験は皆さんにもあるでしょう。けれど、イエスの十字架によって私は、神との交わりを喜ぶ者に変えていただいたのです。 このような素晴らしい恵みは、すべてイエスが私たちのためにかかって下さった十字架の結果です。今日の聖書箇所を読んで『キリストによって』ということばや同じような意味の言葉が何回出てくるのか数えてください。イエス・キリストこそ救いの条件です。イエスによる以外私たちが救われる方法はないのです。使徒4章12節を読みましょう。
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最終更新日 ( 2010/06/20 日曜日 16:26:18 JST )
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