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作者 kyokai
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2010/05/02 日曜日 10:41:39 JST |
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主よ.私があなたを愛することは、あなたがご存知です。 (ヨハネ21章15節) "Yes, Lord,"he said , "you know that I love you." ( John 21 : 15 ) New International Version.
一、イエスが弟子たちに現れる(ヨハネ21章1−14節) ペテロたちは、ガリラヤ湖で漁をしていました。1−6節を読みましょう。場所も、夜通し網をおろして何一つ取れなかったことも、おことばに従った結果、たくさんの魚が網にかかったことも、ペテロたちが何もかも捨てて、イエスに従った時と良く似ています( ルカ 5章1−11 参照)。しかし、イエスは、あの時のイエスではありません。復活後のイエスなのです。すでに二度、イエスは復活の体で弟子たちにお姿を現して下さっていましたから (20章19−29)、これで三度目です。弟子たちはどんなにうれしかったことでしょうか。主を愛するペテロは、一刻も早く主のもとに行きたくて、すぐに上着をまとって岸に向かって泳ぎ出したくらいです(7節)。 9ー13節を読み、主と弟子たちの交わりの光景を頭に描いてみましょう。弟子たちは、主の用意して下さった食事のために、空腹ばかりか、心の奥深くまで、充分に満たされたのです。何という祝福でしょうか。 二、ペテロの傷をいやすイエス(ヨハネ 21章15ー17節) 15ー17節には、食事後のイエスとペテロの対話が記されていますが、イエスのみことばと、ペテロの応答を丁寧に読みましょう。イエスは、ペテロに三度、イエスご自身を愛するかと尋ねられ、ペテロが答える度に、キリスト者の群れを導きなさいと命じられます、ペテロの方は、二度まで同じ応答をしますが、最期には心を痛めて、ペテロ自身の心の中は、すべて主が知っておられる通りだと答えています。何故、イエスは、同じことを繰り返して言われたのでしょうか。 思い出して下さい.ペテロは、大祭司の庭で、イエスを三度裏切ってしまいましたね。 『たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません』(マタイ26章36) と言っておきながら、大切な主を裏切ってしまったことを、彼は二度と思い出したくなかったでしょう。けれど正直者のペテロに、ごまかしきれるはずがありません。赦されない罪を犯したという痛みは、自分でも気づかないうちに、心の中でどんどん深くなっていったことでしょう。イエスは、そのペテロのことをよく知っておられたのです。それでペテロが心の痛みを一時的に忘れ去ることを許さず、外科医が、痛む部分をえぐり出すように、正面から罪を思い出させられたのです。 イエスの三度目の追求に答えるペテロの言葉 (17節) には『主を三度も裏切った罪深い私をおゆるしください。しかし、主よ。そんな私でも心から主を愛します。私以上に私のすべてを知って下さる主よ。どうか私を助けて、主の働き人として導いて下さい』という精一杯の思いが込められていたのではないでしょうか。
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作者 kyokai
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2010/04/24 土曜日 20:20:27 JST |
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しかし 神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。 (使徒2章24節) But God raised him from the dead .freeing him from the agony of death. (acts 2 ; 24 ) New International Version. 礼拝メッセージMP3 一、復活は苦しみからの解放(使徒2章22ー24、32節) 聖霊降臨の日 (ペンテコステ) に、聖霊に満たされたぺテロは、エルサレムに集まっていた多くの人々に『あなたがたは………この方を………十字架につけて殺しました。しかし、神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです』と語りました。死人の中から復活させられたイエスはは、まさに『死の苦しみから解き放』たれた。『罪を知らない方』(㈼コリント5章21節) であるイエスが『罪から来る報酬』(ローマ6章23節) である死につながれていることなど、まったくあり得ない。死の苦しみから解放されるために、イエスが死人の中から復活させられたのは、当然のことです。 ぺテロは、弟子たちがイエスの復活の証人であることを強調しました。もしイエスの復活がなかったなら、聖霊降臨もなく、キリスト教は世に存在しなかったのではないか、そう考えると、『キリストの復活がなければ、キリストの十字架は福音とはならなかった』と言っても過言ではない。福音はあくまで『十字架と復活の福音』なのです。 二、いつも私たちの前に、右におられる主(使徒2章25ー28節) ペテロは、ダビデの詩篇16篇を引用します。『私はいつも、自分の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。………あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』死に勝利した、まさに『いのちの主』であるイエスが、いつも私たちに前に、いや右におられる。これほど力強いことがあるでしょうか 罪の赦しは、私たちを死の恐れから解放します。『永遠のいのちへの水がわき出る』(ヨハネ4章14節) 泉を与えられ、私たちは喜びで満たされる。こうして、いつも主にあって喜んでいる生活がするのです。(ピリピ4章4節 参照)。 三、『死は勝利にのまれた』(第一コリント15章54ー57節) イエスの復活は、何よりも死に対する勝利です。イエスは十字架につけられ、死んで墓に葬られました。しかし、死に対する決定的な勝利者となられました。イエスの復活によって『死は勝利にのまれた』という預言(イザヤ25章8節) が実現しました(54節)。『死よ。おまえのとげはどこにあるのか』(55節、ホセア13章14節)。「死のとげ」とは罪であり、それが完全に取り除かれることによって、私たちは罪と死に対する完全な勝利が与えられています。『神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました』(57節)。 |
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最終更新日 ( 2010/05/16 日曜日 20:13:26 JST )
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作者 kyokai
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2010/04/16 金曜日 11:16:41 JST |
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私たちはイエスが死んで復活されたことを信じます (第一テサロニケ4章14節) We believe that Jesus died and rose again and so we believe. ( 1ThessaLonians 4;14 ) New International Version. 礼拝メッセージ エマオから二人の弟子が急いでエルサレムに戻ってみると、十一 弟子たちとその仲間たちが集まっていました。どんなことを話していたか、34節を読んでみましょう。 エマオから戻った二人も,途中で自分たちが経験した不思議な出来事、一諸に食卓に着き、パンを裂かれた時に、主イエスだとわかったことなどを話しました。 話を聞いても、自分は見てはいないからと,信じられないでいる弟子たちもいました。 ある者は興奮してイエスが復活したことを話し、別の者はそんなことは本当にあるのだろうかと、疑問を抱いていました。彼らはみな混乱していたのです。 二、イエスが真ん中に(ルカ24章36ー43節) このような時に、イエスが真ん中にお立ちになりました。エマオに向かっていた二人の弟子たちの場合と同じように、今度もイエスご自身が来てくださったのです。弟子たちは驚き恐れました。『霊を見ているのだ』と思ったのです。取り乱している弟子たちに、イエスはご自分の手や足を見るように,触ってみるようにとおっしゃいました。38ー39節を読みましょう。弟子たちの心には,イエスに会えた喜びと、十字架で死んで葬られた主イエスがどうしてここに……という戸惑いが入り交じっていました。そのような戸惑いを取り除くために、イエスは弟子たちの前で焼いた魚を召し上がりました。 もう弟子たちの心に迷いはありません。主が復活のからだをハッキリと彼らにお示しになったのですから 三、イエスの復活の証人(ルカ24章44ー53節) それで終りではありません。主イエスは、ご自分の受難と十字架の死、三日目の復活、福音が世界中に伝えられていくことなどは、旧約聖書にあらかじめ預言されていたことだと、お教えになったのです。弟子たちにはイエスの話がよくわかりました。聖書を悟らせるために、イエスが弟子たちの心を開いて下さったからです。 主イエスは弟子たちに『あなたがたは、これらのことの証人です』とおっしゃいました 弟子たちは,イエスが捕らえられた時にはみな逃げてしまいました。ぺテロでさえ『イエスを知らないと言ったのです』(ルカ22章54ー62節)。どの弟子も、イエスの復活をなかなか信じることができませんでした。そんな弟子たちが、どうして『証人』になれるというのでしょうか。主イエスは,聖霊を与えるという約束をして下さいました (49節)。 使徒1章8節を読みましょう。やがて聖霊が弟子たちにくだり、力と知恵を与えられた時に、彼らは『証人』として働き始めるのです。
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最終更新日 ( 2010/04/29 木曜日 22:28:55 JST )
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